2015.03.06

自分史

第10回 運転手の私

また私の若き日、研究員時代の話に戻りたいと思います。今回は乳酸菌と関連が有るような無いような「車」のお話です。
プリンススカイラインと村田

研究所の正垣所長は車が大好きな方でした。そのため研究所には、新型の縦にヘッドライトが4つあるセドリック、プリンススカイライン(スカイラインはプリンス社の車で後に日産車となった)、クラウンと、3台のセダンが有りました。

しかしご自身は運転せず、運転はその都度、研究員の誰かが指名されました。しかも何故か、私がほとんど指名を受けました。お陰様で私は研究のかたわら、様々な車種の車を運転することが出来ました。


当時はAT車ではなく、すべてマニュアル車です。クラッチとアクセル操作で運転者の腕が決まります。私は、仕事でお疲れの所長に体力的に負担をかけないような運転をしようと思い、発進の時、停止の時、バックミラーで後部座席の所長の頭部が揺れないよう最大の注意を払って運転していました。エンジンの回転数と車速をシンクロさせる技術が必要になります。


そのため随分慎重な、しかし悠然とした運転になりました。現在の交通事情ですと、そんな走り方をしていると後ろの車にあおられそうですが、当時は信号も少ないうえに車も少なく、信号待ちなどは殆どないためトラブルもありませんでした。


昭和36年(1961年)、研究所は法光科学研究所と改名され鎌倉市の材木座の高級別荘地に移りました。しかし事務所は東京の目黒にありましたので、二日に一度、所長と共に車で鎌倉~目黒間を往復することになりました。
夜霧の第二国道
目黒を出発し、フランク永井の流行歌にもある「夜霧の第二国道」で、まず横浜へ向かいます。たそがれの横浜から大船、北鎌倉を通り、鎌倉へ入りました。片道約2時間の道のりです。その夜は鎌倉泊まりになります。

光明寺の傍にあった研究員の寮で、研究の内容について同僚と議論したり、一緒に住んでいる営業マンの人達と話をしたのは、今でも楽しい思い出です。

そして翌朝、東京目黒に向かって正垣所長を乗せて車を走らせるという日々を送っていました。2時間の道のりの車中で、私は正垣所長から様々な話をしていただきました。


他人に聞かれたくない「ここだけの話」もありましたし、何より技術的な事について、その時に多くの事を教えていただきました。若き日の私は、所長の話を聞くたびに益々将来に向けての希望が沸くのを感じました。

ある日、車の前を乳酸菌飲料会社の商品名のトラックが走っていました。

正垣所長はそのトラックを見て、「もっと良いのは美味しく漬かったお漬物」だ、と教えて下さいました。そして、京都の「すぐき」という漬物から分離した乳酸菌があるが、培養に日数がかかって難しい、やはり培地に乳を使わないと商品にするには時間がかかりすぎる、という事も教わりました(これは今で言う植物性乳酸菌を指します)。


所長の菌に対する知識や研究心の深さを、現在でも思い知らされます。


このように運転手に指名して頂けたことで、所長みずからの培養技術を授かることができました。改めて正垣所長の遺志を全うする宿命に身の引き締まる思いです。そして所長の精神を引き継ぎ、今は光英科学研究所の社長として「会社を運転する」日々を送っている私です。
トヨペットクラウン
さて先日、新聞社の記者の方が取材に来られ、どなたからか聞いた情報だと思うのですが「村田社長は昔の研究所で運転手をしていたと聞きましたが、本当ですか?」と質問されました。

当時の研究所に所属していても、運転手の職制にあって研究員ではなかったのでは?という事のようでした。

私は大きく笑い「その通りですよ」と即座に答え、「大谷光瑞農芸化学研究所・技師」の肩書の名刺を見せながら、研究所時代の話を沢山させていただきました。おそらく、記者の情報主の方はご存知ではないであろう出来事ばかりです。

そう、自分が運転手をしたからこそ、お声をかけていただいたからこそ、所長のお話を多く聞くことが出来ました。その時代に授かった技術が現在に繋がっています。それは、私の誇りでもあるのです。

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