2014.11.29

自分史

第4回 大秀才と進路

後に乳酸菌の世界へと進むことになるとは夢にも思わず、幼い日の私は、ひたすら電気への好奇心を募らせていました。それは、友人の進路にさえ影響を及ぼしてしまうほどだったようです。


大学進学の学問書山口県内の中学・高校に通っていた時、友人に大変な秀才がおりました。学校の授業をろくに聞かない問題児ながら、後に東大にストレートで合格したという強者です。東大に入学するとすぐに囲碁部の主将になったそうで、東大エリートの中においても優秀で頭脳明晰だったことが窺えます。


そんな彼と同窓会で再会した際、東大から電気関連の大企業に就職したと聞きました。
その頭の良さを持ってすれば大学教授や、弁護士でも医者でもなれるような彼が、一般企業に就職したことに疑問を感じた私は「なぜ電気関係に就職したんだい?」と問うと、彼から「君の影響だよ」と言われ驚きました。


学校時代の私と彼は、真面目とは縁遠い学生でした。授業中には教室の最後列でよく雑談をしたものです。授業を聞かない私達に腹を立てた新任の先生が、厳しい口調で彼を指名し黒板を指さして「この問題を解きなさい!」と言ったことがあります。その頃の学力では到底理解できないような難問でした。新任で東大卒エリートの先生としては、この難問で生徒を黙らせようという目論見だったのです。
しかし彼は平気な顔で、スラスラと問題を解きました。そして「先生、ぼくの問題も解いてみてくださいよ」と、黒板に難問を上回る難問を書き出しました。その問題を見た先生はウーンと唸り、回答は次の授業まで待ってくれと言いました。教室が騒然となったのは言うまでもありません。
当時、そんな彼が家に遊びに来た際、私の収集している無線機類を見て、実に羨ましそうにしていたのが印象的でした。すべてにおいて優秀な彼でしたが、(理科の)電気関連のテスト問題においては、私のほうが高得点を取ったことがありました。
大秀才の彼にとって、電気という分野は、自分の手の中になかなか収まらない憧れの対象だったようです。


電気関連の企業へ就職した彼はその才能を発揮し、成田空港開港の際(そのころ全共闘を巻き込んでの大闘争になったのをご記憶の方も多いと思います)、管制塔が占拠・破壊され通信中枢が大きくダメージを受けて開港が危ぶまれたのを、素早く復旧作業にあたり回復させるのに大きく貢献したという事を、他の友人から聞きました。


今でも同窓会で彼に会うと「俺の作ったレーダーでは飛行機は落ちるよ」などと冗談を飛ばしながらも、嬉しそうに「この歳になっても仕事をやめさせて貰えないんだ」と背広にネクタイという姿で仕事帰りに参加をしてきます。彼の担当している仕事は防衛省関連と思われ、国防上に関わるのか、彼自身の口からその内容に関して詳しい話は聞けませんが、おそらく重要な業務に携わっていることでしょう。


線路



かくして友人の進路まで影響を与えてしまった電気好きの私は、自分自身も電気関連の学校に進み、進路も好きな電気関係に進みたいと希望していました。
そんな私の姿を見ながら、母はあえて乳酸菌の研究所へ入ることを勧めました。当時、乳酸菌生産物質の販売員をしていた母は、この製品の未来に大変な期待を持っていたのです。
母は「乳酸菌の研究所に就職しなさい。あなたの好きな電機は、この乳酸菌研究の事業が大きくなった時に、必ず役立つ時が来るから」と、私を説き伏せました。当時の私はその言葉の重要性にそれほど気づいていませんでしたが、今となっては、この母の説得には感謝してもしきれません。母は息子に、将来多くの人々の健康に役立つ仕事をして欲しかったのだと思います。


母の言葉のおかげで、今こうして乳酸菌生産物質の研究開発に携わっております。
さて、そのころ政治家として山口県内で多忙を極めていた父には、進路に関する相談を持ちかける気持はありませんでした。
しかし父には、自分の政治を息子に継承させる気は無かったものの、息子の行く末には持論があったようです。常々私の考え方に関して注文をつける父に対して、私も反抗し、大声で怒鳴り合うこともよくありました。
いよいよ乳酸菌の研究所で働くため、私が上京する日が来ました。
父には挨拶をせず、玄関を後にしようとした時、「公英ちょっと待て!」と呼び止める父の声が聞こえました。
さすがに身の竦む思いで私は立ち止まりました。すると父は、いつもと違う静かな口調で、私を諭し始めました。
それは戦中戦後の波乱に満ちた世の中を生き抜いた父の口から絞り出された、実に重みのある言葉でした。その言葉は、私の胸に深く刻まれる事になります。

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