2014.12.13

自分史

第5回 父親からの送る言葉

上京するために家を後にしようとした私に、まるで追いかけるように、父は言葉を絞り出しました。
「いいか、人には天命がある。」
天命という言葉にハッとして振り返った私に、父は続けました。
「どのような境遇に遭遇しても“プライド”だけは絶対に守れ」


それは、いかなる時も自分の意思を忘れずに人生を全うしてほしい、という父の願いでありました。「プライド」という言葉は、現在はありきたりで、よく使われています。しかし当時は“プライド”という言葉が使われることは、めずらしい事でした。
この父の発した“プライド”という言葉は、この上なく新鮮で、強烈に私の胸に突き刺さりました。




父の予言通りと言いましょうか、その後の私は様々な境遇に合いましたが、そのたびに父の“プライド”の一言が私の支えになりました。50年余りたった今も、父の“プライド”という言葉が私の人生の羅針盤になってくれています。
若かりし頃の村田


かくして私は、父の言葉を背に、故郷を後にしました。もう二度と戻ることはないかもしれない……私は覚悟を決め、東京へ向かう駅のホームに立っていました。その時にホームに入ってきたSLの姿は、なぜか今でも鮮やか目に焼き付いています。
自分と自分の未来をSLに乗せ、私は出発しました。


20時間近く列車に揺られ、東京に到着しました。「三丁目の夕日」という映画をご存じでしょうか?当時の東京の街は、まさにこの映画そのものでした。戦後復興の中で人々は熱心に働き、貧しいながらも街は活気にあふれていました。
駅まで迎えに来た車に乗りこみ、私は就職先の研究所へ向かいました。車窓からは、まだ展望台まで組み上げていない東京タワーの鉄骨が見えていました。
研究所風景(正垣先生)さて研究所に着いた私は、すでにここで働き始めている同年代の若者を紹介された後、所長室に案内されました。




所長室の壁には51階建ての十文字形の大きなビルの設計図が掲げてあり、大変驚きました。それは未来の研究所の姿を目標として表したものでした。
気の引き締まる思いで、私は所長である正垣一義先生にご挨拶をしました(この方が乳酸菌生産物質の産みの親であります)。
正垣先生の「君たちは若いのだから、日本を世界一の文化国家にしてください。期待しています」という言葉に「立派な乳酸菌の研究者になろう」という決意を新たにした私でした。
そして研究所の近くの四畳半の部屋を、宿舎として与えられました。夜になると頻繁に聞こえてくるサイレンの音には驚くばかりで、山口にいた時には考えられないことに、あらためて「東京に来たのだ」という認識をさせられました。
さて、新入りへの教育は、上京の翌日から始まりました。
まず手はじめに教えられた事、それは乳酸菌に対する「心構え」でした。

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