2015.01.11

自分史

第7回 所長の教育方針

研究所に入所して間もない頃から、私は所長の匠の技というものに何度も遭遇することになりました。その一つが、出来上がった製品の「検査」です。


現在の製造会社では、製造物の最終試験を化学的分析法等で実施し、品質判定後、試験成績表を発行した上で製品として出荷しますが、当時は化学的分析法も確立されていない中です、最終検査は所長が担っていました。

その検査は「お味見」と称されていました。
正垣所長(右端)所長がアルコール消毒した小さじで出来上がった製品を食べ、口の中で何回も回しながら味見をするのです。そして所長から「出してもよろしい」という声が出たところで、製品を出荷することができました。


ある日、いつものように最終検査の「お味見」をしていた所長から「うーん」という声が漏れました。
いつもと違う、只ならぬ雰囲気に、私は何が起きたのかと所長の顔に注目しました。
すると所長は静かに「これは駄目だ、この培養は誰がやった?」と言いました。他の研究員が「△×さんです」と答え、△×さんが所長の前に呼ばれると、所長は激しい口調で「何を考えてやったのだ、心境がよくない、捨ててしまえ!」と一喝しました。



当時、製品が出来上がるには1週間もの時間を要しておりました。そうして作った300㎏の製品を捨てるという即時の判断に、私はびっくりしました(担当した研究員は落ち込んでしまい、3ヶ月位は立ち直れなかったようです)。

所長の指示通り300㎏の製品を捨てる際、私はこっそりその製品を食べてみましたが、いつもの味と違ったところは全くありませんでした。


しかし所長は製品の、いつもの出来と違う何かを、味・匂いなどの五感を使って区別することができたのです。

私はこの出来事を、今でも度々思い返します。そしてこれこそが所長の匠の技の一つであり、五感の鋭さを表した出来事だったと改めて感じさせられるのです。


最近のテレビドラマで「刑事のカン」「主婦のカン」という表現がよく使われていますが、それらは経験が基本になって身についた「勘」だと思われます。所長の場合、それとは違う「感」だったのではないかと思います。


私は研究所の生活の中で、所長からこのような話をよく聞きました。
外智と内智「人には知慧として外智と内智が具わっている。


人生経験をして得られるのが外智であって、生まれたときにすでに具わっているのが内智である。アインシュタインの相対性原理はこの内智から発祥したものである。
また、動物界では内智による行動がある。大地震の前に野鳥やネズミなどが居なくなる事や、大津波の来る前に象が暴れて逃げてしまった事など、よく聞く話である。彼らは内智で行動したのだ。

人間は成長するにつれ外智を主流になり、内智が働くのは特殊な人である。」
「神童、大人になれば只の人」という諺があるが、幼年期には備わっていた内智が、子供も発育して行くに従い、外智より内智が引っ込んでしまう。


しかし、大人になっても静かに集中し雑念を払う練習をすれば、内智を誘導することが可能になる。」
所長の「お味見」での「感」は、内智によるものだったことが、今では理解することができます。そして、研究所に入所した時から「静慮法」を始めさせたのは、所員をこの心境にして仕事をさせるためのものだったのだと納得しました。所長はいつも「心境」を大切にされていました。


また所長が「私は目で観る顕微鏡ではなく、味と臭いの顕微鏡で研究を永年に渡り重ねてきた」と常々口にしておられたのを、今でも昨日のことのように思い出します。
所長の永年わたる乳酸菌の研究には、内智が不可欠でした。私は研究所生活で所長と接しながら、それを実感する日々を送っていました。

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