2019.04.05

光英科学研究所について

第93回 創業50周年、設立25周年を迎えて

弊社は、平成の年号最後の31年4月に、光英科学研究所として、創業50周年・法人設立25周年の節目を迎えることになりました。

私が戦後間もない1948年に、「大谷光瑞農芸化学研究所」が開発した乳酸菌発酵代謝物質「スティルヤング」に出会ったのは、まだ8歳のときでありました。

そのきっかけは、山口県地方で拡販員を務めていた母からの勧めによるものでした。

幼少時代から将来の進路と決めていた電子工学系の学校を卒業後は、母の強い説得により、大谷光瑞農芸化学研究所に入所し、「乳酸菌生産物質」の生みの親である正垣一義所長に師事し、乳酸菌の培養技術の修得に没頭したのでした。

 

 

ところがこれが時代を遥かに超越した技術であったため、当時の諸般の事情に馴染まず、同研究所の経営が行き詰まりを見せ始めます。

そして私の入社10年後となる1969年4月、正垣所長は乳酸菌生産物質の灯を消さぬよう、当時経営の右腕だった現名誉会長の金廣シズ子と私に、光英科学研究所の名称にて創業し、研究・製造・販売を続行する特命ともいえる誓約書を託したのでした。

話がやや脱線しますが、先日、新元号が「令和」と発表になり関連の報道で、他の5つの候補の中に日本書紀を典拠とする「英弘」という案があったことを知りました。

そこで思い出さざるを得ないのが、所長が社名を「光英」と決定した経緯です。

当時の命名の専門家に依頼し、その方の強力な推薦によるものと聞かされておりますが、そうまでした所長のただならぬ決意が窺えるようです。

さて、創業後はさらなる研究開発を迫られ、事業化には資金が必要となるため、専攻していた電子工学を活かし無線通信機メーカーに就職しサラリーをもらいつつ、目標に向かって邁進しました。

時代を先取りしていた乳酸菌研究の灯を絶やさぬよう、実に25年の間ブレることなく、いわゆる二足の草鞋を履いて歩き続けたのです。

 

 

その間、私が踏襲した乳酸菌共棲培養技術にてビフィズス菌を取り込む研究やその事業化のため、コンサルタントとともに大手企業を巻き込み製品化や資金導入の道を模索したのですが、いずれも契約成立直前に破談となりました。

その理由は、いずれの企業側にとっても、自分の会社の研究組織に取り込みたい、という欲望があったからといえましょう。

交渉先には、現在も実在している日本を代表する一部上場企業も数社ございました。

しかし世界の人々を健康にするためであればこそ、私には、事業化の際は取得している技術を自分の手法で活かしていきたいという信念がありましたので、妥協は一切許されなかったのです。

すると1994年53歳のときに、運命が動いたのです。

全国的に販売網のある大手健康食品メーカーが乳酸菌生産物質の効用に着目、毎月相当量の原料購入を約束していただいたことで、私は勤めていた無線機メーカーを退職し、光英科学研究所として法人化を果たすことが出来たのです。

このときの御恩を、私は一生忘れることはありません。

 

 

食品業界に参入してからは、守り抜いた乳酸菌共棲培養技術と乳酸菌生産物質を業界に認知していただく努力を続けました。

可能な限り、エビデンスの構築に努めてまいりました。

当時、東京大学名誉教授・光岡知足先生からもご指導をいただき大変ありがたく感謝しております。

さらに最先端の研究は、著名な大学と産学協同などの形で、現在も加速度的に進んでおります。

現状では、大手企業の研究者や学識者の方々に馴染みのない「共棲培養」「乳酸菌生産物質」ですが、そういう方々が「あっと驚く」ようなエビデンスを着々と構築中です。

この作業は、ノーベル医学生理学賞を受賞した本庶佑教授のモットーである、教科書の定説を疑え、論文に書いてあることを信じない、本当はどうなっているか自分の頭で考え納得できるまでやる、というエビデンスの探求姿勢に似通ったものだと思います。

 

 

"人生で最も大切なものは「運」である"、評論家の田原総一郎さんは松下幸之助氏から、こう言われたそうです。

それも、天から降りて来た運ではなく、自分の力で掴み取った運こそ大切だと。

私の人生78年を振り返ってみれば、私ほど運に恵まれた者はいないだろうと、つくづく思います。

その時々に出会った方々から、貴重なものをいただいております。

その方と接するときは、いつもポジティブかつ真摯に向き合ってきたからこそ、自ずと運が向いて来たと思うのです。

"社長ほどツイている人はいない"、と周りからよく言われます。

このツキを残る人生において、世界の人々の健康と豊かな人生の営みのために使えたら、これほど幸せなことはございません。

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