乳酸菌を科学し健康な未来に寄与する乳酸菌生産物質の光英科学研究所

乳酸菌生産物質の光英科学研究所

KOEI乳酸菌

光英科学研究所・村田公英社長ブログ【私考欄】自分史編

第1回 平成24年10月11日

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第88回 “乳酸菌生産物質の規格表“
#1~14:自分史編
#15:同窓会
#16:私の腸内細菌
#17:乳酸菌との対話
#18-1:純正醍醐論(その1)
#18-2:純正醍醐論(その2)
#18-3:純正醍醐論(その3)
#19:大谷光瑞師の墓碑
#20:乳酸菌生産物質白書
#21:紺屋の白袴
#22:第3の万能細胞
#23:メタボローム解析について
#24:メタボローム解析と腸……
#25:腸内細菌学会
#26:食物繊維
#27:発酵と中村吉右衛門
#28:「噛むこと」そして……
#29:フレンドリーコミュニ……
#30:おせち料理
#31:節分の思い出
#32:NHKスペシャル腸内フローラ
#33:「腸内フローラ」と……
#34:腸内フローラと大腸……
#35:ジェネリック医薬品
#36:ラジオ放送「ジャム……
#37:腸内フローラとクオラ……
#38:もの忘れドック検査
#39:物理的腸内フローラの……
#40:物理的腸内フローラ考……
#41:下町ロケット
#42:黒豆
#43:ポストヨーグルト1
#44:ポストヨーグルト2
#45:実践腸内フローラと便観察1
#46:実践腸内フローラと便観察2
#47:実践腸内フローラと便観察3
#48:書籍「不老‘腸’寿」……
#49:「不老‘腸’寿」編集後記1
#50:「不老‘腸’寿」編集後記2
#51:「不老‘腸’寿」編集後記3
#52:「不老‘腸’寿」編集後記4
#53:16種35株のミステリー
#54:テレビCMとリピート率
#55:アンチエイジングとプ……
#56:昔の乳酸菌生菌剤と現……
#57:光岡知足先生との対談1

#58:2017年1月13日
光岡知足先生との対談2


#59:2017年2月7日
光岡知足先生との対談3


#60:2017年3月23日
絵に描いた餅


#61:2017年4月11日
週刊新潮の特集記事「ト……


#62:2017年4月27日
楽しいゴールデンウィー……


#63:2017年5月23日
ヘルスフードエキスポ……


#64:2017年6月21日
共棲培養というすぐれ……


#65:2017年7月12日
KENJA GLOBALと社長ブ……


#66:2017年8月8日
ラボラトリーからファク……


#67:2017年8月9日
乳酸菌生産物質に賭け……


#68:2017年8月31日
異常気象と腸内環境


#69:2017年9月19日
鶏と乳酸菌生産物質


#70:2017年9月28日
緊急提言。脱「生きた……


#71:2017年10月19日
KENJA LIVE


#72:2017年11月9日
マイクロバイオータ


#73:2017年12月15日
産業革命(その1)


#74:2017年12月26日
産業革命(その2)


#75:2018年2月9日
産業革命(その3)


#76:2018年3月1日
腸内フローラと腸粘膜……


#77:2018年3月27日
文化放送「マスターズ……


#78:2018年4月23日
バイオリンと乳酸菌生……


#79:2018年5月24日
国際食品素材/添加物展……


#80:2018年6月13日
プラセボと自然治癒力


#81:2018年7月3日
プラセボ効果と大手乳酸……


#82:2018年7月25日
ヨーグルトの真実


#83:2018年8月9日
腸内フローラはコン……


#84:2018年9月3日
腸内細菌と乳酸菌の責任


#85:2018年9月26日
乳酸菌16種35株の成……


#86:2018年10月18日
下町乳酸菌


#87:2018年11月16日
「腸内フローラ」その幕引きは大河ドラマ「西郷どん」


#88:2018年12月3日
乳酸菌生産物質の規格表
specification乳酸菌生産物質を原料として使用した商品を販売する場合、その商品を製造する工場で原料を受け入れる際必要となってくるものに、「商品規格書」という仕様があります。


規格書には、その原料の全てを認知できる項目が記載されています。


今回は乳酸菌生産物質の「規格」の中から、特徴的な項目について「規格表」の一部をみなさまに公開いたします。


まず、乳酸菌を培養するための豆乳の原料である大豆は、石川県の契約農家にて農薬や除草剤を使わずに大切に育てられたものを使用しております。


安心安全を心掛けて作っていただいております。





次は、豆乳を培地として培養する16種35株から成る善玉菌による共棲培養についてですが、これが規格表における最大の特徴となります。


ヒトの一生分の健康を司る腸内フローラの営みに着目しそれを体外でも再現することに成功し、そこから得られる健康に寄与する物質を、乳酸菌生産物質という呼称にて我々は世に出したわけですが、これには共棲培養が必須条件となります。


それは、ヒトの腸内フローラのバランスが確立されるためには、善玉菌優勢の腸内バランスが常に共棲状態となってコントロールされている必要があるからです。


この腸内のメカニズムを再現するには、フレンドリーな善玉菌から成る数多くのチームを編成する必要がありました。


次に、そのチームとチームの間においても、フレンドリーな関係が生まれるリーグという形で編成させるようしたのです。


そのような長年の研究にて集大成された菌群を日本食品分析センター多摩研究所にて同定したところ、16種のビフィズス菌・乳酸菌の株数にして、35株あるという結果が得られたのです。


16種35株に至った経緯がおわかりいただけたでしょうか。


結論としては、35株の善玉菌の種類を分類すると、16種になるということです。


出発点はヒトの腸内フローラのメカニズムに着目したことにあり、最終的には同定によって、詳細が判明したのです。


したがって、同定を行うことも必須条件です。





次は、生産段階における特徴について記します。


大量の培養は1トンタンク単位で行っています。


低温からスタートさせ数段階に分けて培養を行い、37℃に達するときは、嫌気状態(無酸素状態)になります。


乳酸菌ビフィズス菌は、嫌気状態にて活発に活動します。


これはヒトの腸内も同様です。


一次発酵、二次発酵を経て、実に120時間の培養になります。


その間、発酵タンクには、発酵を促進するための微細な低周波振動を与えます。


また同時に、長年の習慣として、先代の演奏した尺八の音色を菌たちに聴かせるようしています。


出来上がった乳酸菌生産物質は、メタボローム解析によって物質が特定されております。





以上のように今回は、乳酸菌生産物質の開発から完成に至るまでの代表的な特徴を、規格表としてお知らせいたしました。


弊社の原料をご使用いただくにあたって、安心材料となれば幸いです。


最近の需要傾向として、大手企業の研究開発部門から試験用と思われる数キロ単位の注文が散見されます。


大手市場では技術的に未開発の素材ですので、試験結果が有意なものになるであろうとはいえ、乳酸菌生産物質の作用機序をご理解いただけるかどうかは疑問です。


最近、海外から会社訪問の要請を、ドクターを含む20名以上の方から受けております。


輸出も年々増加しており、こういった流れのもと、海外大手からのオファーの方が先になるかもしれません。


ちなみに、城西大学薬学部と光英科学研究所の産学協同による乳酸菌生産物質の作用機序の研究論文が、世界的に権威ある海外学術誌に掲載されることが決定しました。


今年中に発表の予定です。





< つづく >
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第2回 平成24年10月25日

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第2回 “スティルヤングと母”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

bb1024_01.jpg私が8歳になった1948年(昭和23年)のある日、母が茶瓶の中に醤油のような液体が入ったものを見せてくれました。これは、スティルヤングという名称で、飲むと体に大変良いものだと説明してくれました。水に希釈して飲んでみると甘くて少し酸味があり、当時にしては美味しい食感を得ました。


これが、私と乳酸菌生産物質の初めての出会いでした。


当時の日本は、マッカーサーの統治下にありました。父は山口県で政治家でありながらもレッドパージ(公職追放)で活動が公にできない状況、しかし陰では、岸信介さん、佐藤栄作さん達と政治活動に明け暮れておりました(現・自民党総裁の父である安倍晋太郎さんからは、「村田のおじさん」と親しみを込めて呼ばれていたようです)。


そのころ父の元に出入りしていた人達から、母は「おかみさん」と呼ばれ、周囲からは父以上の信頼を得ていたようで、山口県・他近隣に強力な人脈を有しておりました。その人脈を活用して、母はスティルヤングの拡販に精力的に取組みました。政治に明け暮れる父のもと、生活を陰で支えているのは母であることは、子供の私にも容易に理解できました。


bb1024_03.gifこの頃、正垣一義先生(乳酸菌生産物質の生みの親)は全国的に講演活動を行っており、山口県にも東京から毎月のようにいらっしゃったようです。


国会にて二度に渡り講演(「佛教原理の應用範囲」「寿命論と有効細菌について」)をされたのも、この頃でした。


時は終戦直後ですから、日本復興の為には、丈夫で賢い子供を世に送り出す事が急務でありました。そこで助産婦会(当時は家での出産が普通でした)をターゲットにスティルヤングの販売が開始されました。しかし子供の私は、それが乳酸菌の分泌物とだけ聞かされていたものの、詳細な内容については理解できておりませんでした。


なにしろ子供時代の私は暴れん坊で、川の淵幅20cm位のコンクリートの上を自転車で走って誤って川に落ち、手や足を擦りむき血だらけになり家に帰った事もありました。大層母に叱られ、スティルヤングを全身に塗られ、その痛さに家中を走り回ったのを覚えております。その話を知る義兄には、今はどうしてそんなに大人しくなったのか?不思議でたまらないと言われます。


私の父は明治の男で、気にさわる事があると、誰彼なしに叱りとばしていましたので、「こういう人間には決してなるまい」と子供心に誓ったものですが、そうは言っても父のDNAは私の体の中に受け継がれているのでしょうか、通っていた学校で番長と喧嘩になりました折、2階の教室の窓から放り落とした事があり、幸い大怪我にはなりませんでしたが、担任からは棍棒で叩かれた経験があります。


bb1024_02.gifこのような活発な子供時代を過ごしておりましので、あまり風邪を引く事も無かったのですが、流行性感昌は時々やってきました。抗生物質が世の中に出現したのは、この時代です。なにしろ高熱を出しても、親戚の薬局から手に入れたペニシリンまたはオーレオマイシンを飲ませてもらうと見事に熱が下がって治るので不思議でした。


聞くところによると抗生物質はカビの菌から作ったものだという事、そうすると乳酸菌から作った母の扱っている“スティルヤング”もすごいものではないか、と実感したものです。


今にして思えば、私が乳酸菌生産物質と運命を共にする幕が上がったのも、この時だったのです。


< つづく >

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第3回 平成24年11月15日

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第3回 “ラジオとの出会い”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

乳酸菌生産物質の魅力にとりつかれ、今や乳酸菌生産物質の製造・研究開発に没頭する日々を送るようになった私ですが、元来、物事に対する興味や探究心が旺盛な子供でもありました。


bb1113_01.jpg太平洋戦争終戦の直前、私がまだ4歳の頃。タンスの上にある小さな箱から軍艦マーチが流れ「東部軍管区情報・東部軍管区情報」と繰り返す声が聞こえてきました。箱の中央には小さい窓のようなものがあって、明かりがほんのりとついていました。


その小さな箱は“ラジオ”というものでした。


そして、家の中庭で近所の人達が深さ3mに及ぶ四角い大きな穴を掘っているのを見ましたが、それが防空壕というものであることを知ったのは、後に学校に通うようになってからです。太平洋戦争の末期、本土決戦もやむを得ずの戦況下にあったのを理解できなかったのは幸いでした。とにかく幼い私は、ラジオという小さな箱から音楽や声が流れてくるという現象について、大変な興味を持ったのです。


小学校に入ってからは、技術雑誌を見ては町のラジオ屋さんに駆け込んで、ラジオ用の部品を取寄せてもらいました。そして自分でラジオを組み立てた後、またバラバラにするという作業を繰り返しました。いつまでもラジオに対する興味は尽きませんでした。


自分の手で組み立てたラジオが電波を受け、音を醸し出す瞬間の感動は、言葉に表せないほど深く私の心に刻まれました。そして更にラジオの仕組み、音が聞こえてくる原理について理解したいという探究心が目覚めてきたのです。


bb1113_02.jpg思えばこのラジオに対する体験が、後に乳酸菌生産物質を通して、乳酸菌の本当の姿を探求し続ける今の私に繋がるのではないかと感じる時があります。真相に対する探究心を出発点に、様々な現象が哲学的という解釈に留めず科学的に解明されていくことは、この世の中にとって大変素晴らしい事なのではないでしょうか。現代の最先端の解析技術の進化による貢献も、大変大きいものと思われます。


さて、小学生の私が電子工学を完全に理解するのは無理でしたが、全ての物体は「電子」から成り立っていることと、地球上の万物は「電子」が最小単位であるということ、そしてラジオの場合はその電子が真空管の中を飛んでいるということを理解し、幼心にも満足したのでした。


そのような訳で、「進路は電子工学関連」と固く心に決めていた私でありました。


その時はまだ、自分が乳酸菌の魅力に取りつかれることなどは、想像もしていなかったのです。


< つづく >

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第4回 平成24年11月29日

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第4回 “大秀才と進路”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

後に乳酸菌の世界へと進むことになるとは夢にも思わず、幼い日の私は、ひたすら電気への好奇心を募らせていました。それは、友人の進路にさえ影響を及ぼしてしまうほどだったようです。


bb1129_01.jpg山口県内の中学・高校に通っていた時、友人に大変な秀才がおりました。学校の授業をろくに聞かない問題児ながら、後に東大にストレートで合格したという強者です。東大に入学するとすぐに囲碁部の主将になったそうで、東大エリートの中においても優秀で頭脳明晰だったことが窺えます。


そんな彼と同窓会で再会した際、東大から電気関連の大企業に就職したと聞きました。


その頭の良さを持ってすれば大学教授や、弁護士でも医者でもなれるような彼が、一般企業に就職したことに疑問を感じた私は「なぜ電気関係に就職したんだい?」と問うと、彼から「君の影響だよ」と言われ驚きました。


学校時代の私と彼は、真面目とは縁遠い学生でした。授業中には教室の最後列でよく雑談をしたものです。授業を聞かない私達に腹を立てた新任の先生が、厳しい口調で彼を指名し黒板を指さして「この問題を解きなさい!」と言ったことがあります。その頃の学力では到底理解できないような難問でした。新任で東大卒エリートの先生としては、この難問で生徒を黙らせようという目論見だったのです。


しかし彼は平気な顔で、スラスラと問題を解きました。そして「先生、ぼくの問題も解いてみてくださいよ」と、黒板に難問を上回る難問を書き出しました。その問題を見た先生はウーンと唸り、回答は次の授業まで待ってくれと言いました。教室が騒然となったのは言うまでもありません。


当時、そんな彼が家に遊びに来た際、私の収集している無線機類を見て、実に羨ましそうにしていたのが印象的でした。すべてにおいて優秀な彼でしたが、(理科の)電気関連のテスト問題においては、私のほうが高得点を取ったことがありました。


大秀才の彼にとって、電気という分野は、自分の手の中になかなか収まらない憧れの対象だったようです。


電気関連の企業へ就職した彼はその才能を発揮し、成田空港開港の際(そのころ全共闘を巻き込んでの大闘争になったのをご記憶の方も多いと思います)、管制塔が占拠・破壊され通信中枢が大きくダメージを受けて開港が危ぶまれたのを、素早く復旧作業にあたり回復させるのに大きく貢献したという事を、他の友人から聞きました。


今でも同窓会で彼に会うと「俺の作ったレーダーでは飛行機は落ちるよ」などと冗談を飛ばしながらも、嬉しそうに「この歳になっても仕事をやめさせて貰えないんだ」と背広にネクタイという姿で仕事帰りに参加をしてきます。彼の担当している仕事は防衛省関連と思われ、国防上に関わるのか、彼自身の口からその内容に関して詳しい話は聞けませんが、おそらく重要な業務に携わっていることでしょう。


bb1129_02.jpgかくして友人の進路まで影響を与えてしまった電気好きの私は、自分自身も電気関連の学校に進み、進路も好きな電気関係に進みたいと希望していました。


そんな私の姿を見ながら、母はあえて乳酸菌の研究所へ入ることを勧めました。当時、乳酸菌生産物質の販売員をしていた母は、この製品の未来に大変な期待を持っていたのです。


母は「乳酸菌の研究所に就職しなさい。あなたの好きな電機は、この乳酸菌研究の事業が大きくなった時に、必ず役立つ時が来るから」と、私を説き伏せました。当時の私はその言葉の重要性にそれほど気づいていませんでしたが、今となっては、この母の説得には感謝してもしきれません。母は息子に、将来多くの人々の健康に役立つ仕事をして欲しかったのだと思います。


母の言葉のおかげで、今こうして乳酸菌生産物質の研究開発に携わっております。


さて、そのころ政治家として山口県内で多忙を極めていた父には、進路に関する相談を持ちかける気持はありませんでした。


しかし父には、自分の政治を息子に継承させる気は無かったものの、息子の行く末には持論があったようです。常々私の考え方に関して注文をつける父に対して、私も反抗し、大声で怒鳴り合うこともよくありました。


いよいよ乳酸菌の研究所で働くため、私が上京する日が来ました。


父には挨拶をせず、玄関を後にしようとした時、「公英ちょっと待て!」と呼び止める父の声が聞こえました。


さすがに身の竦む思いで私は立ち止まりました。すると父は、いつもと違う静かな口調で、私を諭し始めました。


それは戦中戦後の波乱に満ちた世の中を生き抜いた父の口から絞り出された、実に重みのある言葉でした。その言葉は、私の胸に深く刻まれる事になります。


< つづく >

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第5回 平成24年12月13日

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第5回 “父親からの送る言葉”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

上京するために家を後にしようとした私に、まるで追いかけるように、父は言葉を絞り出しました。
「いいか、人には天命がある。」


天命という言葉にハッとして振り返った私に、父は続けました。
「どのような境遇に遭遇しても“プライド”だけは絶対に守れ」


それは、いかなる時も自分の意思を忘れずに人生を全うしてほしい、という父の願いでありました。「プライド」という言葉は、現在はありきたりで、よく使われています。しかし当時は“プライド”という言葉が使われることは、めずらしい事でした。


この父の発した“プライド”という言葉は、この上なく新鮮で、強烈に私の胸に突き刺さりました。


父の予言通りと言いましょうか、その後の私は様々な境遇に合いましたが、そのたびに父の“プライド”の一言が私の支えになりました。50年余りたった今も、父の“プライド”という言葉が私の人生の羅針盤になってくれています。


bb1213_01.jpgかくして私は、父の言葉を背に、故郷を後にしました。もう二度と戻ることはないかもしれない……私は覚悟を決め、東京へ向かう駅のホームに立っていました。その時にホームに入ってきたSLの姿は、なぜか今でも鮮やか目に焼き付いています。


自分と自分の未来をSLに乗せ、私は出発しました。


20時間近く列車に揺られ、東京に到着しました。「三丁目の夕日」という映画をご存じでしょうか?当時の東京の街は、まさにこの映画そのものでした。戦後復興の中で人々は熱心に働き、貧しいながらも街は活気にあふれていました。


駅まで迎えに来た車に乗りこみ、私は就職先の研究所へ向かいました。車窓からは、まだ展望台まで組み上げていない東京タワーの鉄骨が見えていました。


bb1213_02.jpgさて研究所に着いた私は、すでにここで働き始めている同年代の若者を紹介された後、所長室に案内されました。


所長室の壁には51階建ての十文字形の大きなビルの設計図が掲げてあり、大変驚きました。それは未来の研究所の姿を目標として表したものでした。


気の引き締まる思いで、私は所長である正垣一義先生にご挨拶をしました(この方が乳酸菌生産物質の産みの親であります)。


正垣先生の「君たちは若いのだから、日本を世界一の文化国家にしてください。期待しています」という言葉に「立派な乳酸菌の研究者になろう」という決意を新たにした私でした。


そして研究所の近くの四畳半の部屋を、宿舎として与えられました。夜になると頻繁に聞こえてくるサイレンの音には驚くばかりで、山口にいた時には考えられないことに、あらためて「東京に来たのだ」という認識をさせられました。


さて、新入りへの教育は、上京の翌日から始まりました。


まず手はじめに教えられた事、それは乳酸菌に対する「心構え」でした。


< つづく >

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第6回 平成24年12月27日

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第6回 “研究所での生活”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

bb1227_01.jpg将来に希望を持ち東京へ出てきた私を待っていたのは、研究所での厳しい教育でした。


まず起床すると、そのまま正座して10分間「静慮法」というものを毎日励行します。10秒間ゆっくりと息を腹に吸い込み10秒間ゆっくり出すというのを10分間行い、心を静めると同時に何も考えないのです。


これを毎日続けていく内に雑念が取れて無に近い状態が自然に保てるようになりました。


そして正垣所長の教育は「乳酸菌の起源」から始まるのでした。


「微生物(乳酸菌)は人類の現れる遙か前から、この地球上に存在していた。つまり人類の大親分なのであるから、そのつもりで接するように」


「乳酸菌は、人の細胞のように複雑ではなく単純な生物なので、技術者も乳酸菌に対して真摯な態度でもって接し、作業をする際に邪念を抱いてはいけない。これはこれからの作業で君たちも身をもって経験し理解することであろう」


「これまで永年に渡り純粋に育ててきた乳酸菌達を扱うのであるから、皆、心身すべて清潔にして接する事」


「研究所の廊下にある大型の電気冷蔵庫の中に、重要な菌が缶に入って収納されているので、火災、地震のときには何よりも先に非常持ち出しをする事」


乳酸菌に対しての心構えについて、このように徹底して教え込まれた私でした。


また所長の教育方法は、新人に対して、基礎から一つずつ教えていくのではなく、いきなり生産工場の現場に参加させる方式でした。なにしろ大正時代から重ねてきた乳酸菌の研究をいかに継続するかという事が一番大事で、求められるのは即戦力でした。


「乳酸菌の培養方法を基本から教える時間は無い、とにかく正確に作業しなさい」という方針のもと、新人の私は必死についていきました。


bb1227_02.jpg今でいえば、料亭の板場で修行する新人に似たところがあるかもしれません。親方から教わるのではなく、親方の背中から技術を習得するという方式です。


新入りの私が初めに担当したのは、使用した機械類の洗浄から残渣物の処理をすることでした。今でこそ大豆から豆乳を作り、それを培地にして発酵させているのですが、当時は豆乳を培地に使用していることは重大な企業秘密でした。


それを知らない私が工場の前のゴミ箱に、残渣物である「おから」を捨てたのを、所長に見つかり、大変な怒りを買いました。そして「おから」は遠くへ捨てに行けと言われたものです(現在は豆乳を培地に使うことで、牛乳培地では得られない機能性をアピールするようになっています)。

また、研究所の製造工場は東京の住宅街にありました(音楽家・服部良一氏の家の隣にありました)。

当時は食品生産の技術も発展途上で、建物も現在のようにクリーン度の高いものではなく、普通屋敷を改装したものでした。そのため乳酸菌の培養をしながらも雑菌の混入を防ぐ必要がありました。


雑菌の種類は季節により違っていましたが、雑菌の影響を受けやすい6月から8月までは生産を中止するなどの工夫が必要な状況でした。


では次回は、正垣所長の匠の業ともいえる「五感」についてお話ししたいと思います。


< つづく >

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第7回 平成25年1月11日

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第7回 “所長の教育方針”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

(7)2013年1月11日
“所長の教育方針”

研究所に入所して間もない頃から、私は所長の匠の技というものに何度も遭遇することになりました。その一つが、出来上がった製品の「検査」です。


現在の製造会社では、製造物の最終試験を化学的分析法等で実施し、品質判定後、試験成績表を発行した上で製品として出荷しますが、当時は化学的分析法も確立されていない中です、最終検査は所長が担っていました。


その検査は「お味見」と称されていました。


bb0111_01.jpg所長がアルコール消毒した小さじで出来上がった製品を食べ、口の中で何回も回しながら味見をするのです。そして所長から「出してもよろしい」という声が出たところで、製品を出荷することができました。


ある日、いつものように最終検査の「お味見」をしていた所長から「うーん」という声が漏れました。


いつもと違う、只ならぬ雰囲気に、私は何が起きたのかと所長の顔に注目しました。


すると所長は静かに「これは駄目だ、この培養は誰がやった?」と言いました。他の研究員が「△×さんです」と答え、△×さんが所長の前に呼ばれると、所長は激しい口調で「何を考えてやったのだ、心境がよくない、捨ててしまえ!」と一喝しました。


当時、製品が出来上がるには1週間もの時間を要しておりました。そうして作った300㎏の製品を捨てるという即時の判断に、私はびっくりしました(担当した研究員は落ち込んでしまい、3ヶ月位は立ち直れなかったようです)。


所長の指示通り300㎏の製品を捨てる際、私はこっそりその製品を食べてみましたが、いつもの味と違ったところは全くありませんでした。


しかし所長は製品の、いつもの出来と違う何かを、味・匂いなどの五感を使って区別することができたのです。


私はこの出来事を、今でも度々思い返します。そしてこれこそが所長の匠の技の一つであり、五感の鋭さを表した出来事だったと改めて感じさせられるのです。


最近のテレビドラマで「刑事のカン」「主婦のカン」という表現がよく使われていますが、それらは経験が基本になって身についた「勘」だと思われます。所長の場合、それとは違う「感」だったのではないかと思います。


私は研究所の生活の中で、所長からこのような話をよく聞きました。



bb0111_02.gif「人には知慧として外智と内智が具わっている。


人生経験をして得られるのが外智であって、生まれたときにすでに具わっているのが内智である。アインシュタインの相対性原理はこの内智から発祥したものである。


また、動物界では内智による行動がある。大地震の前に野鳥やネズミなどが居なくなる事や、大津波の来る前に象が暴れて逃げてしまった事など、よく聞く話である。彼らは内智で行動したのだ。


人間は成長するにつれ外智を主流になり、内智が働くのは特殊な人である。」


「神童、大人になれば只の人」という諺があるが、幼年期には備わっていた内智が、子供も発育して行くに従い、外智より内智が引っ込んでしまう。


しかし、大人になっても静かに集中し雑念を払う練習をすれば、内智を誘導することが可能になる。」


所長の「お味見」での「感」は、内智によるものだったことが、今では理解することができます。そして、研究所に入所した時から「静慮法」を始めさせたのは、所員をこの心境にして仕事をさせるためのものだったのだと納得しました。所長はいつも「心境」を大切にされていました。


また所長が「私は目で観る顕微鏡ではなく、味と臭いの顕微鏡で研究を永年に渡り重ねてきた」と常々口にしておられたのを、今でも昨日のことのように思い出します。


所長の永年わたる乳酸菌の研究には、内智が不可欠でした。私は研究所生活で所長と接しながら、それを実感する日々を送っていました。


< つづく >

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第8回 平成25年1月25日

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第8回 “尺八と乳酸菌と物心一如”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

(7)2013年1月11日
“所長の教育方針”

(8)2013年1月25日
“尺八と乳酸菌と物心一如”

今回の表題は、「尺八と乳酸菌と物心一如」とさせていただきました。一見、何のことだか、まるで禅問答のような表題でございますが、今回のブログを終わりまでお読みいただければご理解いただけるかと思います。


bb0125_01.jpg正垣所長は乳酸菌の研究のみならず、尺八演奏の大変な名人でした。「正垣郷童」という名前を持ち、日本でも有数の腕前であったと聞いております。


所長は若いころから尺八が大好きだったそうで、京都の実家(そのころは研究所も京都にあり、研究所の敷地内に居宅があったそうです)で尺八の練習に励むあまり、家族から「うるさい」とよく注意されたそうです。


仕方がないので、押入れの中で頭から布団を被って練習したり、早朝に近くの銀閣寺の境内に出かけて練習をしたそうです。冬の京都の朝は冷たく、長時間吹いていると、尺八の先から出る唾が「つらら」となって地面まで届いたものだ、とおっしゃっていました。


ある日、所長から「新橋演舞場まで連れて行ってくれ」と言われ、車でお連れすると、演舞場の裏口から入り、上演中の舞台の袖に平然と据わって尺八を演奏されました。突然の事にビックリしながら楽屋で待機したものです。楽屋周辺では、観世栄夫(能役者)さんが出番の用意をされているのを目の当たりにし、有名人を前に更に緊張しました。


その後も月に一度くらいのペースで、琴、三味線の日本トップの方が正垣所長の元に集まり、共に演奏会をしておられました。


正垣所長は乳酸菌を培養する時にも、菌の近くで尺八を吹いておられました。


所長から何の説明もなかったので、「なぜ菌の培養に尺八を吹かれるのだろう?」と、その当時は疑問に思っていました。



尺八の音が菌の発育等に大きく影響する事を知るに至ったのは、ずっと後になってからです。前の項にも書きましたように、所長は五感に長けていたため、尺八を乳酸菌に聴かせることによる変化が判別できたのではないかと思います。


bb0125_02.gif現在では、生物に対する「音」の影響は広く知られております。


蘭などの高級生花、ハウス野菜、きのこ栽培、酒造、ワイン熟成等に音楽を聞かせる方法が取られています。


またNHKの番組でも、シャーレで菌を培養する際、シャーレの周辺に炭素の粉を巻くと菌の発育が促進する、それは炭素から出る固有の音波の周波数に起因するものであるという解説がありました。


そのような訳で、当然のことながら我々研究員も所長を見習い、尺八の練習をすることになりました。上手な人は当時研究所の寮のあった近くの池上本門寺にて早朝練習をしていたところ、通りがかりの人が10円玉を置いていったそうで、それを見て皆で大笑いをしたのも良い思い出です。


さて仏教の中に「物心一如」という言葉があります。「一」は不二「如」は不異の意で、簡単に説明すると物と心は一つだということになります。


乳酸菌そのもの(物)と、乳酸菌の心。それは異ならず一つである。だからこそ、人の健康のために働くという真理が存在するのではないかと、私は考えております。


現在、光英科学研究所では乳酸菌(元菌)の保存・研究のための培養時、大量生産時にエンドレスでCDによる尺八の曲を聞かせております(正垣所長の演奏したものです)。


正垣所長の遺志が尺八の音によって作用された乳酸菌を通じて乳酸菌生産物質となり、皆様に広く役だっていただければと夢を託しています。


今回の禅問答のような表題、ご理解いただけたら幸いです。


< つづく >

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第9回 平成25年2月14日

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第9回 “光英科学科学研究所のルーツと大谷光瑞農芸化学研究所”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

(7)2013年1月11日
“所長の教育方針”

(8)2013年1月25日
“尺八と乳酸菌と物心一如”

(9)2013年2月14日
“光英科学科学研究所のルーツと大谷光瑞農芸化学研究所”

今これまで私の若き日の研究所生活についてお話をしてきましたが、その研究所である「大谷光瑞農芸化学研究所」の歴史について、今回はお話ししたいと思います。


bb0214_01.jpg乳酸菌生産物質の生みの親であり、私の研究所時代の所長であった正垣一義氏の研究は、京都の地で大正3年(1915年)、医師であった父親の正垣角太郎氏と共にスタートしました。


京都大学の先生方の指導も得て我が国最初のヨーグルトを開発し、「エリー」という名称で宅配を開始しました。昭和4年(1929年)にはエリー株式会社を設立し、4種乳酸菌の共棲培養による製品(生菌)の販売をしていました。


昭和12年(1937年)に東京へ進出。潤生ソキン株式会社として、製品も8種乳酸菌の共棲培養へと進化し、胃腸薬「ソキンL」を販売しました(当時としては、粉末状の生菌剤として最も強力で使用期限も長く、最先端の薬品として関東軍の指定薬にもなっていました)。


正垣氏はこの時点で、乳酸菌の商品を「完成」させ目的を達成したという気持ちを持っていましたが、ある出会いをきっかけに、更に乳酸菌の研究を続ける運命となります。


それは大谷光瑞師との巡り合いでした。大谷光瑞師は浄土真宗本願寺大谷派第22代法主を明治36年(1963年)に継承され、大正天皇の義兄にも当たる方です。当時中国大連にあった3万坪の敷地を有する本願寺関東別院内に「大谷光瑞農芸化学研究所」を設け、仏典にある「香」や「薬物」の栽培の研究をされていました。特に香科学、植物学、薬物学知識は非常に専門的に手がけておられました。


その最後の研究が、仏典中の細菌学でした。昭和19年に正垣一義氏と出会った光瑞師は、細菌学の研究を極めるために、乳酸菌の研究を続けてきた正垣氏を、研究所の次長に命じます。


そして、仏典中の醍醐に注目した乳酸菌醗酵代謝物質による製品「スティルヤング」の開発に成功しました。これこそが16種の乳酸菌の共棲培養によるもので、現在の乳酸菌生産物質の元祖です。この開発は、正垣一義氏の「ソキンL」の開発技術が基本になりました。


スティルヤングの開発中に、光瑞師は昭和20年(1945年)11月に膀胱腫瘍にて大連病院へ入院されました。時は終戦後、日本の敗戦により日本人同士の面会が困難であった為、正垣氏は中国人に変装し、1日も欠かさず毎朝定刻に病室へ研究経過の報告に行ったそうです。光瑞師からは「正垣が来たから、今○○時だ」という言葉が聞かれるようになりました。


bb0214_02.jpgその真面目な姿勢が光瑞師の信頼を得たのでしょう、昭和22年(1947年)2月28日、引揚船遠州丸にて大連を離れる前、光瑞師は正垣氏に2月11日付の自筆の命令書を渡しました(左の画像)。


それには「帰国ノ上ハ早速事業部を分離独立シ会社設立ナスベシ」とありました。


光瑞師は帰国後、昭和23年10月5日別府鉄輪別邸にて遷化されました。


正垣氏は命令通り、寿光製薬株式会社を東京銀座に昭和23年(1948年)に設立し「スティルヤング」の全国普及活動に活躍を行いました(前にもお話しましたが私の母は、この時代の山口県界隈の拡販員でした)。


その後、昭和26年に社名を義報社と改め、さらなる商品開発が行われました。


私は昭和34年に義報社へ入社し、その研究所である「大谷光瑞農芸化学研究所」に所属し、この私考欄でもご紹介したような生活を送りました。


正垣氏は、研究所で所長としての仕事をしながらも「研究所の所長は光瑞師であるから、私は次長の地位」と言っておられました。ここにも光瑞師との深い絆を感じます。


ここから光英科学研究所に至る道程は、私だけが知っている秘話も交えて私考欄にて随時ご紹介していきたいと思っております。今後もご愛読のほどよろしくお願いいたします。


< つづく >

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第10回 平成25年3月6日

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第10回 “運転手の私”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

(7)2013年1月11日
“所長の教育方針”

(8)2013年1月25日
“尺八と乳酸菌と物心一如”

(9)2013年2月14日
“光英科学科学研究所のルーツと大谷光瑞農芸化学研究所”

(10)2013年3月6日
“運転手の私”

また私の若き日、研究員時代の話に戻りたいと思います。今回は乳酸菌と関連が有るような無いような「車」のお話です。


bb0307_01.jpg研究所の正垣所長は車が大好きな方でした。そのため研究所には、新型の縦にヘッドライトが4つあるセドリック、プリンススカイライン(スカイラインはプリンス社の車で後に日産車となった)、クラウンと、3台のセダンが有りました。


しかしご自身は運転せず、運転はその都度、研究員の誰かが指名されました。しかも何故か、私がほとんど指名を受けました。お陰様で私は研究のかたわら、様々な車種の車を運転することが出来ました。


当時はAT車ではなく、すべてマニュアル車です。クラッチとアクセル操作で運転者の腕が決まります。私は、仕事でお疲れの所長に体力的に負担をかけないような運転をしようと思い、発進の時、停止の時、バックミラーで後部座席の所長の頭部が揺れないよう最大の注意を払って運転していました。エンジンの回転数と車速をシンクロさせる技術が必要になります。


そのため随分慎重な、しかし悠然とした運転になりました。現在の交通事情ですと、そんな走り方をしていると後ろの車にあおられそうですが、当時は信号も少ないうえに車も少なく、信号待ちなどは殆どないためトラブルもありませんでした。


昭和36年(1961年)、研究所は法光科学研究所と改名され鎌倉市の材木座の高級別荘地に移りました。しかし事務所は東京の目黒にありましたので、二日に一度、所長と共に車で鎌倉~目黒間を往復することになりました。


bb0307_02.gif目黒を出発し、フランク永井の流行歌にもある「夜霧の第二国道」で、まず横浜へ向かいます。たそがれの横浜から大船、北鎌倉を通り、鎌倉へ入りました。片道約2時間の道のりです。その夜は鎌倉泊まりになります。


光明寺の傍にあった研究員の寮で、研究の内容について同僚と議論したり、一緒に住んでいる営業マンの人達と話をしたのは、今でも楽しい思い出です。


そして翌朝、東京目黒に向かって正垣所長を乗せて車を走らせるという日々を送っていました。2時間の道のりの車中で、私は正垣所長から様々な話をしていただきました。


他人に聞かれたくない「ここだけの話」もありましたし、何より技術的な事について、その時に多くの事を教えていただきました。若き日の私は、所長の話を聞くたびに益々将来に向けての希望が沸くのを感じました。


ある日、車の前を乳酸菌飲料会社の商品名のトラックが走っていました。


正垣所長はそのトラックを見て、「もっと良いのは美味しく漬かったお漬物」だ、と教えて下さいました。そして、京都の「すぐき」という漬物から分離した乳酸菌があるが、培養に日数がかかって難しい、やはり培地に乳を使わないと商品にするには時間がかかりすぎる、という事も教わりました(これは今で言う植物性乳酸菌を指します)。


所長の菌に対する知識や研究心の深さを、現在でも思い知らされます。


このように運転手に指名して頂けたことで、所長みずからの培養技術を授かることができました。改めて正垣所長の遺志を全うする宿命に身の引き締まる思いです。そして所長の精神を引き継ぎ、今は光英科学研究所の社長として「会社を運転する」日々を送っている私です。


bb0306_03.jpgさて先日、新聞社の記者の方が取材に来られ、どなたからか聞いた情報だと思うのですが「村田社長は昔の研究所で運転手をしていたと聞きましたが、本当ですか?」と質問されました。


当時の研究所に所属していても、運転手の職制にあって研究員ではなかったのでは?という事のようでした。


私は大きく笑い「その通りですよ」と即座に答え、「大谷光瑞農芸化学研究所・技師」の肩書の名刺を見せながら、研究所時代の話を沢山させていただきました。おそらく、記者の情報主の方はご存知ではないであろう出来事ばかりです。


そう、自分が運転手をしたからこそ、お声をかけていただいたからこそ、所長のお話を多く聞くことが出来ました。その時代に授かった技術が現在に繋がっています。それは、私の誇りでもあるのです。


< つづく >

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第11回 平成25年3月21日

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第11回 “正垣所長の広大な目標”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

(7)2013年1月11日
“所長の教育方針”

(8)2013年1月25日
“尺八と乳酸菌と物心一如”

(9)2013年2月14日
“光英科学科学研究所のルーツと大谷光瑞農芸化学研究所”

(10)2013年3月6日
“運転手の私”

(11)2013年3月21日
“正垣所長の広大な目標”

さて、乳酸菌生産物質の歴史について、話を戻しましょう。


bb0321_01.jpg正垣所長は昭和23年に寿光製薬株式会社を設立、今日の乳酸菌生産物質の元祖とも言える製品「スティルヤング」の開発に成功しました。そして昭和24年25年と2回にわたって、国会で「寿命論と有効細菌」と題した講演を行いました。


後に速記録を読みますと、乳酸菌醗酵技術について現在と変わらぬ説明がされています。その当時の国会議員の方々がご理解されたかどうかわかりませんが、文部大臣や厚生大臣から賛辞の文章も頂いています。


その後、昭和26年に社名を義報社と改め、さらなる商品開発が行われました。


その当時、乳酸菌に関する研究開発は途上で、学術的にも大学の研究室に留まっている状況でした。しかし将来的な発展を見込んでか、我々の研究所に月に一度は大企業の技術系の上層部の人たちが見学にみえておりました。


そして商社や大企業との商談になるケースが多々ありました。しかし必ず相手側が自社にて独占する条件を出してきますので、正垣所長は「ポリシーと違う」と断り、最後の契約書の調印の段階でいつも破談になっていました。


当時の研究所は財務的にも厳しい状況下にありましたので、大きな商談が決まればどんなに楽だろうか、と、社員は何度もがっかりさせられました。しかし振り返ってみますと、現在の我々があるのは正垣所長の決断のお陰と、しみじみ感じております。


bb0321_02.jpgとにかく正垣所長の目標は広大なもので、当時の産業界の発展のペースを超越したところがありました。何しろ私が入社した昭和34年に52階建ての高層ビルを本社とする計画があったのです。その青写真も見ています。大谷光瑞師の命を受け、戦後の日本を世界一の文化国家に導こうという信念が、所長を突き動かしていたのでしょう。


そして製品に対する大転換も当時行われました。


当時の国民は、戦後の復興の中にありましたが、飽食の現在と違って食生活は健康的なものでした。そこで、健康に寄与する「スティルヤング」を、食品の「味」を引き立てる商品に切り替えて「味のちえ」としたのです。


「味のちえ」は、自然の風味を引き立たせる価値観が認められて、料理人の方々の共感を得ることが出来ました。その当時の食品素材は粗削りのものが多かったようですが「味のちえ」を添加することにより、風味を引き出すことができたのです。


しかし、この時代は長く続きませんでした。化学調味料による人工的に作られた味が普及して、「味のちえ」の出番は少なくなってしまいました。そうして、ますます研究所の経営も財務的に苦境を強いられてまいりました。


乳酸菌生産物質の歴史の中で、永年にわたり築き続けられた乳酸菌の発酵技術。その火を消さぬよう必死に守り続けた道のりは、大変な苦難の連続でした。その事をぜひ、次の回でお伝えしたいと思っております。


< つづく >

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第12回 平成25年4月19日

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第12回 “正垣所長の片腕”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

(7)2013年1月11日
“所長の教育方針”

(8)2013年1月25日
“尺八と乳酸菌と物心一如”

(9)2013年2月14日
“光英科学科学研究所のルーツと大谷光瑞農芸化学研究所”

(10)2013年3月6日
“運転手の私”

(11)2013年3月21日
“正垣所長の広大な目標”

(12)2013年4月19日
“正垣所長の片腕”

企業は好調な時ばかりではありません。正垣所長の事業計画が広大なものであったため、財務的にも大きなスケールのやりくりが必要となりました。


bb0419_01.gif当時、多くのお得意様が製品の良さと将来性を見込んで、所長の事業に多額の投資をしてくださいました。しかしなかなか計画通りには参りません。そのうち会社は資金繰りに追われるようになりました。


しかし、投資していただいたお得意様にご迷惑はかけられません。このときに機動力と実行力を発揮したのが長年正垣所長の片腕として働いた、現在の光英科学の会長でもある金廣シズ子でした。


金廣は関東から関西に至る広域に渡って、日々資金集めに東奔西走しました。しかし状況は一向に好転しません。そのうち一日毎に当時で100万円を超える約束手形の決済に迫られることになりました。


負債の矢面に立った彼女は、度々その方面の怖い人たちからの取り立てにもあい、それは想像を絶する辛さであったと後に本人も回想しています。


ある日のこと、金廣が借金の件で都内の小さな薄暗い喫茶店に呼び出されました。私は研究員をしながら車の運転もしておりましたので、彼女をその場所に送り届け、そのまま彼女が帰って来るのを店の外で待っていました。


30~40分もした頃、真っ青な顔をした金廣が、その方面の怖い人達に両脇を抱えられて店から出てきました。


帰りの車の中で話を聞いたところ、なんでも喫茶店の地下に連れて行かれ、短刀で脅され返済を迫られたとのこと。正気を無くした彼女はもう生きる気力も失せたと思い「どうぞ殺してください」と逆に相手に対して懇願したそうです。


金廣の意外な反応に慌てた相手は、早々に開放してくれたそうですが、彼女はその場で腰が抜けて立って歩くこともできなかったそうで、両脇を抱えられて店の外へ連れ出されたのでした。私はこの話を聞いて、何ともいたたまれない気持ちになりました。


bb0419_02.gif会社に戻ってこの話を聞いた正垣所長は、大粒の涙を流したそうです。


しかし金廣は様々な苦難にあいながらも、この仕事から手を引くことはしませんでした。



厳しい状況の中でも会社には新規の問い合わせが来ており、未来に対して希望が無かったわけではありません。また幼い子供たちを育てている最中でもあった彼女は、この状況から逃げることもままならなかったという実情もあったようです。


そんな金廣の奮闘を子供たちも理解し、幼いながらも母親への手伝いを惜しまず家族がそれぞれを支えあう生活が続きました(縁があって後に、私は金廣の娘である治子と結婚することになりました)。


しかし、残念ながら状況が好転することはありませんでした。そしてこの事業は一度終焉を迎えざるを得なくなります。その話はまた次回、お話しましょう。


< つづく >

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第13回 平成25年5月2日

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第13回 “光英科学研究所の創立”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

(7)2013年1月11日
“所長の教育方針”

(8)2013年1月25日
“尺八と乳酸菌と物心一如”

(9)2013年2月14日
“光英科学科学研究所のルーツと大谷光瑞農芸化学研究所”

(10)2013年3月6日
“運転手の私”

(11)2013年3月21日
“正垣所長の広大な目標”

(12)2013年4月19日
“正垣所長の片腕”

(13)2013年5月2日
“光英科学研究所の創立”

前回の話の続きになりますが、当時、残念ながら財政的に研究所をそのまま続行することができなくなってしまいました。正垣所長の元で働いていた私も金廣も、仕事の転換を余儀なくされました。


しかし正垣所長としては、長い間に培った研究成果や将来への展望があり、その火を簡単に消すわけにはいかないと思ったのでしょう。


bb0502_01.jpgそれを片腕であった金廣に託したいという思いから、「光英科学研究所」という名称で、研究、製造販売を一任するという誓約書が昭和44年4月20日付で金廣に手渡されました。


後に、正垣氏は光英科学研究所とは別の形で大谷光瑞農芸化学研究所を再建しましたが、当時の緊迫した状況に臨場していた私にとって、このような形で光英科学研究所が誕生したことには、なにやら大きな事業の運命を感ぜざるを得ません。


さて毎日の生活にも事欠く状況となってしまいました。金廣は都内の飲食店で働きはじめ、一人でも研究を続行した正垣氏への支援を続けました。私も仕事を探さなければなりません。この時、若い時に趣味としていた「無線」が役立ちました。無線機メーカーに面接に行くと、明日からでも来て欲しいと求められて、私は幼き日に夢を見た電気関係の仕事に就くことになりました。


その数年後、金廣の娘・治子と結婚、二人の子にも恵まれ、一見はごく普通のサラリーマンとしての生活になりました。


bb0502_02.jpgしかし正垣所長が夢を託した「光英科学研究所」としての活動を忘れたわけではありません。


休日や会社の終業後に、私はこの乳酸菌生産物質の事業を熱心に進めていたコンサルタントと協力して事業化の立案を行い、製造方法についてもビフィズス菌を含める形で改良を進めて行きました。


そんな私の姿を見た無線機メーカーの社長は呆れ、「お前は一体何を考えているのだ」とよく言われたものです。しかし社長には大変可愛がっていただきました。今ならば社員が副業に精を出しているのを推奨しないでしょう。懐の深い社長のおかげで、私は二足のわらじを履き続けることができました。


無線機メーカーでサラリーマンを23年続けて退職した私は、金廣を会長に、光英科学研究所を法人化しました。乳酸菌生産物質の全国的販売ネットワーク、毎月の販売量、などの調査をして確信を得た上での独立です。


こうしてふたたび、私は乳酸菌生産物質研究の道を走り始めたのでした。


< つづく >

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第14回 平成25年6月12日

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第14回 “新たな出発”
(1)2012年10月11日
“戦争と誕生”

(2)2012年10月25日
“スティルヤングと母”

(3)2012年11月15日
“ラジオとの出会い”

(4)2012年11月29日
“大秀才と進路”

(5)2012年12月13日
“父親からの送る言葉”

(6)2012年12月27日
“研究所での生活”

(7)2013年1月11日
“所長の教育方針”

(8)2013年1月25日
“尺八と乳酸菌と物心一如”

(9)2013年2月14日
“光英科学科学研究所のルーツと大谷光瑞農芸化学研究所”

(10)2013年3月6日
“運転手の私”

(11)2013年3月21日
“正垣所長の広大な目標”

(12)2013年4月19日
“正垣所長の片腕”

(13)2013年5月2日
“光英科学研究所の創立”

(14)2013年6月12日
“新たな出発”

bb0612_01.jpg今まで13回に渡り、私の身の上話と、乳酸菌生産物質の生みの親である大谷光瑞農芸化学研究所の正垣所長の研究について、お話をしてまいりました。


過去を顧みますと、色々なことが思い出されますが、53才にて無線機メーカーを退社して、光英科学研究所を法人化することで、正垣所長の遺志であった「人々の健康のために乳酸菌生産物質を世に広く普及すること」に専念することができました。改めて、乳酸菌生産物質に対する運命を感じ、さらなる使命感に燃える思いでございます。


光英科学研究所を法人化した当時は(19年も前の事ですので)、乳酸菌といってもヨーグルトは普及していたものの、「乳酸菌生産物質」というものを理解していただくのは、それは至難の業でした。


それでも乳酸菌生産物質をお試しいただき、体の調子が良くなった方々がお客様になってくださり、その方々の口コミで広めていただいたのが実情です。


そのころ乳酸菌研究の学術界においては、東京大学名誉教授光岡知足先生が、腸内環境と腸内細菌の関係について着眼され、理化学研究所で腸内フローラシンポジウムも発足されていましたが、まだまだ乳酸菌の代謝物における研究は途上にあったと推察しております。


乳酸菌生産物質の販売に関しては、30年に渡り普及活動に従事してくださったコンサルタントの方と協力しながら、主にOEMで活動をしました。そして、その品質を実感してくださった経営者の方々に出会い、販売をして頂くことができました。大切なご縁に、深く感謝しております。


bb0612_02.gifさて仏教には「因果」という言葉があり、直接的原因(因)と、間接的条件(縁)との組み合わせによって、様々な結果(果)が生み出されると言われております。


正垣所長は、大正時代から乳酸菌の研究に取り組み、乳酸菌8種類の共棲培養を確立した後に大谷光瑞師と出会い、乳酸菌の代謝物の重要性に気付かされました。これらが「因」とすれば、それに共感して集まってくださった方々の力が「縁」であり、そして乳酸菌生産物質が普及するという「果」が生み出されたものと思います。


改めて、愛用者の皆様に深く感謝を申し上げます。


さて、これからのブログは「新たな出発」と題し、「私考」の立場から、乳酸菌生産物質についていろいろな角度から、みなさまにお話をしたいと考えております。腸内にて生息している善玉菌、共棲培養の必要性、人の健康との関連など、お話したいことが山ほどございます。


8歳から現在(72才6ヶ月)に渡り、乳酸菌生産物質を飲み続けた者の話として、このブログを引き続きご覧いただければ幸いです。


< つづく >

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私考欄の目次ページ

乳酸菌の新しいステージ

乳酸菌,原材料