醍醐(マンダ)は乳酸菌生産物質の原点

その昔、お釈迦様は健やかで、乳酸菌で作られた醍醐(マンダ)という食べ物を愛用しておられたそうです。醍醐(マンダ)に関する文献の一つが、シルクロードの敦煌に眠っていたサンスクリットのお経です。

その貴重な文献を発見したのが、西本願寺第22代法主 大谷光瑞 師が編制された西域大谷探検隊でした。光瑞 師は中国の大連にあった大谷光瑞農芸化学研究所で、その醍醐(マンダ)の再現に着手、実に70年も前のことでした……その製法が脈々と受け継がれ、現在の光英科学研究所の乳酸菌生産物質として存在しているのです。

乳酸菌生産物質の原点「醍醐(マンダ)」、それはお経の中に記されていた

醍醐マンダ醍醐とは、10世紀頃の日本で製造されていた乳製品で、牛乳を煮詰め熟成させて作られるチーズ様の高級食品だったと考えられています。元来は、中国から伝来したものと考えられていますが、現在では中国、日本双方で製造方法の伝承が絶たれており幻の食品となってしまいました。

その醍醐に関する文献の1つが、今から109年前(1902年)に、第22代・西本願寺門主である大谷光瑞師が編成した「シルクロード探検隊」が典の涅槃経の中にあります。サンスクリット語で醍醐は「マンダ」と表現され、このように記されています。

「……善男子、譬えば牛従り乳を出し、乳従り酪を出し、酪従り生蘇を出し、生蘇より熟蘇を出す。熟蘇従り醍醐を出す、醍醐は最上なり。もし服することある者は、衆病皆除こる。所有の諸の薬は、悉く其の中に入るが如し……」とあります。ここから、醍醐(マンダ)は当時の万能薬として尊重されていたことをうかがい知ることができます。

この事を現代に置き換えて解釈してみましょう。まず、牛乳を乳酸菌の付着している器に入れます。その器にいつも付着している菌がマザースターターとなって発酵が始まる現象を「酪」とすれば、乳酸菌が増殖して菌数が最大になった状態が「生蘇」といえるでしょう。これが一次発酵です。

そしてさらに発酵が続き時間を経た状態を「熟蘇」、ここで二次発酵が行われると考えます。最終的に乳酸菌が長時間の活動を終えて菌は死活して人体に有効な代謝物が残ります、その物質が「醍醐」(マンダ)と考えられます。

この製法が、光英科学研究所の乳酸菌生産物質の基本となっています。違う点は培地として牛乳ではなく、栄養豊富な豆乳を使用しているところでしょうか。

乳酸菌生産物質の誕生

ではここで、醍醐(マンダ)の考えから乳酸菌生産物質が誕生した経緯についてお話をさせていただきます。

約90年前、日本初のヨーグルトが開発されました。その開発を始めたのは、「腸内細菌と長寿命」について論じたノーベル賞学者イリヤ・メチニコフの提言に傾倒した医師・正垣角太郎です。

正垣角太郎、そして子息の正垣一義は、さらに乳酸菌の研究を進め、共棲培養の手法を追及して乳酸菌4種類を共棲培養した「エリー」を商品化しました。そして生きた菌群をなるべく強いものにする研究を続けた結果、8種類の共棲に成功して「ソキンL」という乳酸菌製剤が完成し、それは陸軍指定の薬品にも採用されていました。

大谷光瑞氏一方、浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)第22代宗主の大谷光瑞師は、宗主を退いた後、昭和16年(1941年)に中国・大連にて大谷光瑞農芸化学研究所を設立、諸々の研究をされていました。訪中の機会を得た正垣一義は、以前から師と仰いでいた大谷光瑞師に拝謁し、それまでの業績を評価され乳酸菌の更なる研究の為、研究所の次長として就任いたしました。

そして研究を続けているうちに正垣一義氏は大谷光瑞師から「あなたの研究は未完成である。経典からすると醍醐には至っていない。」という指摘をうけました。今まで自分の永年の研究はいったい何だっただろうか?と思ったそうです。そこで、醍醐なるものの再現のために、16種に至る共棲培養と代謝物の開発へ転換を図り、日本が終戦をむかえるころには基本となる方式を完成させたのです。

正垣一義氏これが生きた菌そのものではなく菌群の代謝産物、即ち乳酸菌生産物質の誕生となりました。敗戦のため日本に帰り研究所を再開するように、という大谷光瑞師の命を受けた正垣氏は、東京で寿光製薬株式会社を設立。「スティルヤング」という大谷光瑞師の命名による製品名で国内での販売を開始したのが昭和23年(1948年)のことです。

その後、正垣氏は昭和25年(1950年)には国会で2回に渡り「有効細菌と寿命論」という演題にて講演も行っており当時の厚生大臣と文部大臣から賞詞を受けています。

このように、お経の中に記されていた「醍醐(マンダ)」から、乳酸菌生産物質の製法が誕生しました。そして現代も乳酸菌やビフィズス菌などの有効菌を利用した乳酸菌生産物質の研究が続けられています。

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