2019.07.18
光英科学研究所について
第98回 さらば戦友
弊社元取締役会長であり、私の義母である金廣シズ子は、令和元年7月6日、95歳にて生涯を閉じました。
金廣シズ子は、昭和24年、25歳にて寿光製薬株式会社に入社して、乳酸菌の代謝産物から成る製品「スティルヤング」を全国的に拡販する活動を行いました。
その後昭和34年、大谷光瑞農芸化学研究所・株式会社義報社に私は入社したのです。
当時、社長であり研究所の所長であった正垣先生の経営面において、片腕となって辣腕を振るっている金廣シズ子の姿がありました。
会社が開発した製品は進化を続けていったものの、まだ乳酸菌が世の中に認知されていない状況下、会社経営としては昭和38年頃から苦戦を強いられていきました。
私と母は、この事業の灯は絶対に消してはならない、という信念とともに会社存続のため、取引先や企業投資家のところを関東一円から大阪に至るまで奔走したのです。
車の走行距離が、トータルにして100万キロを優に越えたことを思い出します。
そうした努力の甲斐もなくついに終局を迎え、昭和44年4月、研究の継続と乳酸菌生産物質の未来のために正垣先生から金廣シズ子に、光英科学研究所の創立という特命の誓約書が渡されたのです。
母は、戦後の激動期を生き抜く途上で公私ともに多くの困難と向き合う日々を送りましたが、「乳酸菌生産物質でより多くの人たちを幸せにする」という信念を持って、終始、前を向き歩み続けてまいりました。
どんなときも明るく皆を励まし、人との絆を重んじ感謝の気持ちを忘れることなく努力を続ける姿がありました。
何があっても顔を上げ前進を続けていれば、必ず明るい未来へ繋がるということ、そして人は1人では生きられず、助け合い尊重し合うことで大きなことを成し遂げられるのだ、という生き方を社員全員に教えてくれました。
私にとって母は、会長であり、苦難をともにしてきた戦友でございます。
当初、入院先の病院では2週間で退院できると知らされておりました。
私が最後に見舞った日は午後3時に面会をしましたが、元気に笑顔で話をする中にも凛とした立派な姿を見せてくれました。
東京に帰宅したところ病院から容態の急変を知らされ、午後10時には眠るように息を引き取ったそうでございます。
急性心不全、発症4時間後との診断でしたが、これは私が会話した直後の発症だったのです。
戦友は、会社への思いを寄せる最後の言葉を残して先立ちましたが、実に見事な旅立ちでした。
残る人生、社員とともに元会長の意志を受け継ぎ、世界の人々の幸せのために精進してまいる所存でございます。
これまでに賜りました、みなさまのひとかたならぬご厚情に、金廣シズ子に代わりまして厚くお礼申し上げます。
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