2013.05.02

自分史

第13回 光英科学研究所の創立


前回の話の続きになりますが、当時、残念ながら財政的に研究所をそのまま続行することができなくなってしまいました。正垣所長の元で働いていた私も金廣も、仕事の転換を余儀なくされました。


しかし正垣所長としては、長い間に培った研究成果や将来への展望があり、その火を簡単に消すわけにはいかないと思ったのでしょう。
誓約書

それを片腕であった金廣に託したいという思いから、「光英科学研究所」という名称で、研究、製
造販売を一任するという誓約書が昭和44年4月20日付で金廣に手渡されました。


後に、正垣氏は光英科学研究所とは別の形で大谷光瑞農芸化学研究所を再建しましたが、当時の緊迫した状況に臨場していた私にとって、このような形で光英科学研究所が誕生したことには、なにやら大きな事業の運命を感ぜざるを得ません。


さて毎日の生活にも事欠く状況となってしまいました。金廣は都内の飲食店で働きはじめ、一人でも研究を続行した正垣氏への支援を続けました。私も仕事を探さなければなりません。この時、若い時に趣味としていた「無線」が役立ちました。無線機メーカーに面接に行くと、明日からでも来て欲しいと求められて、私は幼き日に夢を見た電気関係の仕事に就くことになりました。

その数年後、金廣の娘・治子と結婚、二人の子にも恵まれ、一見はごく普通のサラリーマンとしての生活になりました。
無線機メーカー会社員時代の村田
しかし正垣所長が夢を託した「光英科学研究所」としての活動を忘れたわけではありません。

休日や会社の終業後に、私はこの乳酸菌生産物質の事業を熱心に進めていたコンサルタントと協力して事業化の立案を行い、製造方法についてもビフィズス菌を含める形で改良を進めて行きました。

そんな私の姿を見た無線機メーカーの社長は呆れ、「お前は一体何を考えているのだ」とよく言われたものです。しかし社長には大変可愛がっていただきました。今ならば社員が副業に精を出しているのを推奨しないでしょう。懐の深い社長のおかげで、私は二足のわらじを履き続けることができました。

無線機メーカーでサラリーマンを23年続けて退職した私は、金廣を会長に、光英科学研究所を法人化しました。乳酸菌生産物質の全国的販売ネットワーク、毎月の販売量、などの調査をして確信を得た上での独立です。

こうしてふたたび、私は乳酸菌生産物質研究の道を走り始めたのでした。

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