2015.02.14

自分史

第9回 光英科学科学研究所のルーツと大谷光瑞農芸化学研究所

今これまで私の若き日の研究所生活についてお話をしてきましたが、その研究所である「大谷光瑞農芸化学研究所」の歴史について、今回はお話ししたいと思います。
正垣氏と大谷光瑞師の胸像
乳酸菌生産物質の生みの親であり、私の研究所時代の所長であった正垣一義氏の研究は、京都の地で大正3年(1915年)、医師であった父親の正垣角太郎氏と共にスタートしました。

京都大学の先生方の指導も得て我が国最初のヨーグルトを開発し、「エリー」という名称で宅配を開始しました。昭和4年(1929年)にはエリー株式会社を設立し、4種乳酸菌の共棲培養による製品(生菌)の販売をしていました。

昭和12年(1937年)に東京へ進出。潤生ソキン株式会社として、製品も8種乳酸菌の共棲培養へと進化し、胃腸薬「ソキンL」を販売しました(当時としては、粉末状の生菌剤として最も強力で使用期限も長く、最先端の薬品として関東軍の指定薬にもなっていました)。

正垣氏はこの時点で、乳酸菌の商品を「完成」させ目的を達成したという気持ちを持っていましたが、ある出会いをきっかけに、更に乳酸菌の研究を続ける運命となります。


それは大谷光瑞師との巡り合いでした。大谷光瑞師は浄土真宗本願寺大谷派第22代法主を明治36年(1963年)に継承され、大正天皇の義兄にも当たる方です。当時中国大連にあった3万坪の敷地を有する本願寺関東別院内に「大谷光瑞農芸化学研究所」を設け、仏典にある「香」や「薬物」の栽培の研究をされていました。特に香科学、植物学、薬物学知識は非常に専門的に手がけておられました。

その最後の研究が、仏典中の細菌学でした。昭和19年に正垣一義氏と出会った光瑞師は、細菌学の研究を極めるために、乳酸菌の研究を続けてきた正垣氏を、研究所の次長に命じます。

そして、仏典中の醍醐に注目した乳酸菌醗酵代謝物質による製品「スティルヤング」の開発に成功しました。これこそが16種の乳酸菌の共棲培養によるもので、現在の乳酸菌生産物質の元祖です。この開発は、正垣一義氏の「ソキンL」の開発技術が基本になりました。

スティルヤングの開発中に、光瑞師は昭和20年(1945年)11月に膀胱腫瘍にて大連病院へ入院されました。時は終戦後、日本の敗戦により日本人同士の面会が困難であった為、正垣氏は中国人に変装し、1日も欠かさず毎朝定刻に病室へ研究経過の報告に行ったそうです。光瑞師からは「正垣が来たから、今○○時だ」という言葉が聞かれるようになりました。
自筆の命令書

その真面目な姿勢が光瑞師の信頼を得たのでしょう、昭和22年(1947年)2月28日、引揚船遠州丸にて大連を離れる前、光瑞師は正垣氏に2月11日付の自筆の命令書を渡しました(左の画像)。
それには「帰国ノ上ハ早速事業部を分離独立シ会社設立ナスベシ」とありました。
光瑞師は帰国後、昭和23年10月5日別府鉄輪別邸にて遷化されました。
正垣氏は命令通り、寿光製薬株式会社を東京銀座に昭和23年(1948年)に設立し「スティルヤング」の全国普及活動に活躍を行いました(前にもお話しましたが私の母は、この時代の山口県界隈の拡販員でした)。


その後、昭和26年に社名を義報社と改め、さらなる商品開発が行われました。

私は昭和34年に義報社へ入社し、その研究所である「大谷光瑞農芸化学研究所」に所属し、この私考欄でもご紹介したような生活を送りました。

正垣氏は、研究所で所長としての仕事をしながらも「研究所の所長は光瑞師であるから、私は次長の地位」と言っておられました。ここにも光瑞師との深い絆を感じます。

ここから光英科学研究所に至る道程は、私だけが知っている秘話も交えて私考欄にて随時ご紹介していきたいと思っております。今後もご愛読のほどよろしくお願いいたします。

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