2014.12.27

自分史

第6回 研究所での生活

当時の名刺将来に希望を持ち東京へ出てきた私を待っていたのは、研究所での厳しい教育でした。



まず起床すると、そのまま正座して10分間「静慮法」というものを毎日励行します。10秒間ゆっくりと息を腹に吸い込み10秒間ゆっくり出すというのを10分間行い、心を静めると同時に何も考えないのです。
これを毎日続けていく内に雑念が取れて無に近い状態が自然に保てるようになりました。




そして正垣所長の教育は「乳酸菌の起源」から始まるのでした。
「微生物(乳酸菌)は人類の現れる遙か前から、この地球上に存在していた。つまり人類の大親分なのであるから、そのつもりで接するように」
「乳酸菌は、人の細胞のように複雑ではなく単純な生物なので、技術者も乳酸菌に対して真摯な態度でもって接し、作業をする際に邪念を抱いてはいけない。これはこれからの作業で君たちも身をもって経験し理解することであろう」
「これまで永年に渡り純粋に育ててきた乳酸菌達を扱うのであるから、皆、心身すべて清潔にして接する事」
「研究所の廊下にある大型の電気冷蔵庫の中に、重要な菌が缶に入って収納されているので、火災、地震のときには何よりも先に非常持ち出しをする事」
乳酸菌に対しての心構えについて、このように徹底して教え込まれた私でした。




研究所の仲間と(右端が村田)また所長の教育方法は、新人に対して、基礎から一つずつ教えていくのではなく、いきなり生産工場の現場に参加させる方式でした。なにしろ大正時代から重ねてきた乳酸菌の研究をいかに継続するかという事が一番大事で、求められるのは即戦力でした。


「乳酸菌の培養方法を基本から教える時間は無い、とにかく正確に作業しなさい」という方針のもと、新人の私は必死についていきました。
今でいえば、料亭の板場で修行する新人に似たところがあるかもしれません。親方から教わるのではなく、親方の背中から技術を習得するという方式です。




新入りの私が初めに担当したのは、使用した機械類の洗浄から残渣物の処理をすることでした。今でこそ大豆から豆乳を作り、それを培地にして発酵させているのですが、当時は豆乳を培地に使用していることは重大な企業秘密でした。
それを知らない私が工場の前のゴミ箱に、残渣物である「おから」を捨てたのを、所長に見つかり、大変な怒りを買いました。そして「おから」は遠くへ捨てに行けと言われたものです(現在は豆乳を培地に使うことで、牛乳培地では得られない機能性をアピールするようになっています)。


また、研究所の製造工場は東京の住宅街にありました(音楽家・服部良一氏の家の隣にありました)。
当時は食品生産の技術も発展途上で、建物も現在のようにクリーン度の高いものではなく、普通屋敷を改装したものでした。そのため乳酸菌の培養をしながらも雑菌の混入を防ぐ必要がありました。


雑菌の種類は季節により違っていましたが、雑菌の影響を受けやすい6月から8月までは生産を中止するなどの工夫が必要な状況でした。
では次回は、正垣所長の匠の業ともいえる「五感」についてお話ししたいと思います。

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